2019年4月8日月曜日

109景 芝うらの風景

109景 芝うらの風景
(安政3年(1856年)2月改印)

109景 芝うらの風景
(平成31年(2019年)4月撮影)

隅田川の最下流が勝鬨橋だった時は陸上から撮れなかった浜離宮の風景。
築地大橋へ続く環状2号線の迂回路から撮影した。
築地市場の解体後、本来の環状2号線が開通し、迂回路が無くなったら、また撮れなくなる風景かもしれない。






2018年10月19日金曜日

114景 虎の門外あふひ坂

114景 虎の門外あふひ坂
(安政4年(1857年)11月改印)

114景 虎の門外あふひ坂
(平成26年(2014年)8月撮影)

かつて赤坂から虎の門にかけて、江戸町民の飲み水を確保するための人口の溜池があった。
溜池は埋め立てられ、影も形もなくなってしまったが、溜池交差点など今でもその名は残っている。
溜池のお尻の堰堤はその溜池交差点付近にあったようだ。


上の地図と虎の門あふひ坂の絵を比べてみると、坂の左の白塀は肥前松平家のお屋敷。だから、この坂の名前を葵坂という。

以前は江戸町民の飲み水を確保していた溜池だったが、現在では霞が関の役人の帰宅を待つタクシープールへと変貌していた。





2018年10月12日金曜日

7景 大てんま町木綿店


7景 大てんま町木綿店
(安政5年(1858年)4月改印)

 7景 大てんま町木綿店
(平成30年(2018年)10月撮影)

前記事でも書いたが、大伝馬町界隈は陸上交通の要所だったため、江戸の交易を支える商業地域となり、江戸最大の繊維問屋街として発展した。

広重は名所江戸百景の中で、2枚の大伝馬町の絵を残していて、1つは前記事の「大伝馬町こふく店」、もう1つが今回の「大てんま町木綿店」。
大伝馬町こふく店の大丸呉服店がデパートなら、こちらは大きな長屋に複数のテナントが同居しているショッピングモールといったところか。

「大伝馬町こふく店」とは500m程しか離れていないにも拘らず、2枚の絵を残しているくらいなので、当時、この界隈はかなりの賑わいをみせていたに違いない。


現在は無表情なビルが連なる通りで、訪問したのが日曜日ということもあり、残念ながら、かつての隆盛は感じられなかった。

2018年10月11日木曜日

75景 大伝馬町こふく店

 75景 大伝馬町こふく店
(安政5年(1858年)7月改印)

 75景 大伝馬町こふく店
(平成30年(2018年)10月撮影)

大伝馬町、小伝馬町の「伝馬」とは何ぞや?

「伝馬」とは、人や荷物を馬に乗せ、次の宿駅や目的地まで運んでいく制度のこと。
より多い馬を準備していた方を大伝馬町、少ない方を小伝馬町と名付けたらしい。
現代でいうと、バスターミナル、物流ターミナルと言ったところか?

交通の要所であったこの地は、江戸の交易を支える商業地域となり、江戸最大の繊維問屋街として発展。
今は東京駅八重洲口にある大丸も、かつては大伝馬町にあり、広重が描いたのはその大丸呉服店(江戸店)である。

安政年間の地図にも「大丸」の文字を確認することができる。

「大伝馬町こふく店」は東側から西の方向を見て描いたものだが、通りの向こうに東京スカイツリーが見えたため、写真はあえて西側から東の方角を撮った。


【参考文献】

2018年10月9日火曜日

77景 京橋竹がし

77景 京橋竹がし(安政4年(1857年)12月改印)

77景 京橋竹がし(平成28年(2016年)12月撮影)

中央区京橋にはかつて京橋川という河川(運河)があり、橋が架かっていた。
名所江戸百景の京橋竹がしは、満月の中の京橋と左岸にあった炭町の竹屋の様子を描いたものだが、「炭町」の町名は安政年間の地図にも存在する。

京橋川は終戦直後まで存在したが、戦後の復興事業の一環として外濠、京橋川を埋め立て道路を作るという計画が立ち上がり、昭和34年(1959年)に消滅した。
今では東京高速道路KK線が頭上を走っている。


撮影は、絵に合わせて12月の満月の夜に行なった。
当時は南北に橋が架かっていたのが、現在では東西に橋(高架)と、南北と東西が入れ替わっているのが面白い。
また、姿を運河から高速道路に変えても、物流の動脈であり続けているのも興味深い。


【参考文献】
Wikipedia-京橋川(東京都)

2018年10月8日月曜日

76景 神田紺屋町

76景 神田紺屋町(安政4年(1857年)11月改印)

76景 神田紺屋町(平成30年(2018年)10月撮影)

神田紺屋町は、慶長年間(1896-1615)徳川家康から関八州と伊豆の藍買付けを許された紺屋頭・土屋五郎右衛門が支配し、藍染職人が集住した町。

現在の地図で、神田駅の東側、昭和通りの手前あたり。
今でも、「神田紺屋町」、「神田東紺屋町」、昭和通りの「紺屋町交差点」として地名が残る。

かつて、神田紺屋町付近には藍染川という人口河川が流れており、染物をこの川で晒していたとのこと。
現在の地図と安政年間の地図を重ねてみると、神田駅南側の広い一方通行の道路の一本南側に川があったことがわかる。この藍染川は明治時代に埋められてしまったが、「今川橋」等の地名に名残をとどめている。


さて、広重が描いたころの神田紺屋町は、藍や紺の手染めの布が、あたかも万国旗のように町を彩っていたようだが、現在は染物屋は見当たらない。
当然、万国旗のように町を彩っていた染物など皆無なので、町の案内板を手染めの布に見立てて写真に収めた。
広重の絵には富士山が描かれているが、現在では見えるはずもなく...


【参考文献】
千代田区ホームページ 町名由来板:神田紺屋町
東京都下水道局ホームページ 神田藍染川